2008年の抱負は、「皆が幸せになるための、会社としての礎を築く」こと

予めおことわりしておきますが、このエントリは長くてキモいエントリです。ご注意ください。



私の今年の抱負は、「皆が幸せになるための、会社としての礎を築く」ことです。



私の会社は「タワーズ・クエスト株式会社」といいます。私は二代目社長です。創業者は私の父親です。


私が大学にいたころは、普通のプログラマとして(もしくは所謂SEとして?)生きていこうかと考えていた私の人生と、まがりなりにも会社として堅実に歩んできた父親の人生は、(それまでとりたてて仲が良かったわけでもないし)、交わらないのではないかと思っていました。


しかし様々なきっかけから私は卒業と同時に父親を助けることを志し、しばらくしてまた様々なきっかけから世代交代を決意(合意)し、私が二代目の経営者となりました。(父は今も現役技術者として、また経営のアドバイザーとしても、私を支えてくれています)。
そのとき会社は若干ピンチの状態でした(父親の名誉のために書いておくと、危機は父親の責任というよりも、何というか黒船的な、あるいは893的な、大いなる力に蹂躙されかかったというような、妙な表現になるでしょう)。

私自身の人生としても、所謂大学卒業→新卒で大企業みたいな人生ゲームチックな出世コースからは、スタートからいきなりドロップアウトしました。ただ全く後悔はしていません。スタートからいきなりカウンター気味ですが、自分で自分の人生に選択権を持てる、手応えのある道だと考えています。


とにもかくにも私の代は、様々なハンデを負ってのスタートとなりました。社長になってからは、会社としてまず規模を縮め、緊縮財政を採り、立て直しを図ってきました。典型的な「守銭奴的経営」をやってきたわけです。(とはいっても勉強には投資します。本は会社のお金で買って良いというルールにしています。整理したのは、ここには書けない様々なモノです)


個人としての私はコードを書くことと、本を読むことが好きなプログラマとして生きてきました。

社長としての私は、正直言ってこれまで「どう生き残るか、会社をどう生き残らせるか」にフォーカスしていました。そこにベンチャーのような華やかさはなく、地味で泥臭く生き残りにかかる零細企業の姿そのものです。身の丈を超えることをしても足下を危うくするだけと考え、出来ることだけをやってきました。攻めようにも、攻め方を知らなかったということもあります。


しかし、ここ数年で、状況がゆっくりと変わってきました。様々な出会いが、私を成長させてくれました。


角谷さんとの出会いは、私に多くの刺激をもたらしました。「チームかくたに」にXPのコーチとして参加して、様々な試行錯誤を行いつつ走り続けた一年半は、私のプログラマとしての前半生の金字塔でしょう。(前半生と言っているのは、まだまだ金字塔を建てるつもり満々だからですw)。プログラマとして様々なことを学んだだけでなく、組織の面から、チームの面からも様々なことを学びました。

チームを、組織を、自己適応する有機体にすることが可能だということ、「舵を理想の方に切っても良い」、ストレッチプランとして理想の姿を掲げるのは悪ではないという認識を得ました。現実とバランスを取ることを忘れずに、それでも理想を求めても良いんだなと、「体験」することができました。


羽生さんと知り合ったことで、経営者としての勉強をすることが出来ました。これは得難い経験だったと思います。大きい企業の幹部候補生ならともかく、普通の小さい企業の経営者が経営について自社の経営者以外の人から学ぶということはあまりないだろうと考えられるからです。羽生さんと一緒に仕事をした期間は、私にとって今後の糧となる重要な時間だったと考えます。

羽生さんからは、どんなときでも攻めることを学びました。より正確に表現するなら、どのようなときであっても、視線をぶらさないことを学びました。『二人の囚人がいたとさ。ひとりは鉄格子から泥を見ていた。もうひとりは鉄格子から夜空に輝く星を見ていた。』…というやつです。羽生さんからは、攻め方と、視線を高く保つ、その精神を学びました。


もちろん父親は最初の師匠です。一番多くのものを学びましたし、まだまだ現役で働いている、私の最も尊敬する技術者のひとりです。父親は昨年『SQL書き方ドリル』の共著者としてひとつ足跡を世に残しましたが、まだまだもうひと花ふた花咲かせてもらいたいと考えています。


一昨年の秋のことですが、私のところにも、若く前途有望な若者が仲間として参加してきてくれました。SQUATを作った村石君です。ものすごい能力と、伸びしろを持っている若者です。まだまだ教えたいことがたくさんありますし、私の方が彼からいろいろと学ぶことがあります。


素晴らしいお客様との出会いもありました。現在おつきあいさせていただいているお客様は、意識が高く、私に対する要求も高く、技術的にもプロジェクト的にも手応えがあります。


そして、こんな私でも仲間になりたいと言ってくださる人も、段々と現れるようになってきました。


ほかにも様々な素晴らしい人たちに出会うことができました。このような素晴らしい出会いが出来たのは、幸運ではなく、これは縁であったと考えています。そこまでの因果が連なって、必要なときに、必要なところに、私は居ることが出来た、ということだと解釈しています。



今度は私のターンです。恩返し、恩送りのターンです。



私は「最大多数の最大幸福」を目指しますが、まず「目の届く範囲、手の届く範囲」から、笑顔になるための、幸せになるための仕組みを作っていきたい、と考えています。



私は昔羽生さんに教わったとおり、毎年元旦には、「10ヶ年計画」を立てます。

去年立てた「10ヶ年計画」をいま見直すと、前倒しになったところもあれば、遅れているところもあります。ただここ数年の全体的な傾向として言えるのは、「想像したことは前倒しになって実現する」、もしくは、「計画したことは(想像を超えて早く)目の前に姿を現す」ということです。

自分が考えたこと、望んだことは早く訪れます。何事も計画通りに行くことはないということを重々承知ですが、計画の前倒しに対して、私が対応し得ていたかというと、これもまた、対応できたこともあれば、対応できなかったこともあります。


対応できなかったことは、私がまだその器ではなかったということだと考えています。人は自分の速度でしか変われないということです。そして私の歩みは遅いということです。
(だからはぶさんは「待つ」ということをエントリで書いているのだと思います。はぶさんも、きっと内心では私を見てジリジリしているのではないでしょうか。すみません)。


それでも、私は私のスピードで変わっていかなければなりません。


会社というものは、成長の器となるものだと考えています。経営者としての私も成長します。会社の仲間たちも成長します。事業も成長します。お客様も私たちとの関わりの中で成長していただけたらいいな、と考えています。


会社が背負っていたハンデも克服し、ようやくスタートラインが見えてきました。まだスタートラインにはたどり着いていませんが、スタートラインに立った時点で準備運動を始めたのでは、いかにも遅いでしょう。走り出すための、準備運動をするときが、いま来たということです。ですから、今年は会社としての仕組みを再構築する年にします。



みなさま、今年も、よろしくお願いします。